旧制上中30期生【米寿を記念に母校訪問】

2016年06月28日(火)
去る平成28年6月13日、本校に来校してくださいました旧制上中30期生 上田卓二様より、【米寿を記念に母校訪問】の原稿とお写真を頂きました。
また、上田様・高岸様は事務局にまで お礼のお言葉を送って下さいましたので、ご紹介させていただきます。

~お礼文~
同窓会事務局 様

≪上田様より・・・
拝啓
 このたびは、大変お世話になりましたと言うより、大変ご迷惑をおかけいたしまして恐縮いたしています。誠にありがとうございました。また、早速、90周年の冊子等のご送付いただき恐縮しています。お礼にお伺いいたせねばならないところ、誠に失礼ですが書状にて勝手させていただきます。校長先生、仲谷先生をはじめ諸先生によろしくお伝えください。
 私のつまらない原稿と、当日の写真を同封します。       敬具≫

≪高岸様より・・・
前略
 本日6/18 この度は結構なる記念誌をご送付いただき誠に有難うございました。 先日学校へ寄せて頂き在学の思い出を新に致しましたと共にこの立派な記念誌(他校に見られない)を頂き喜んでおります。
当ホームにおきまして、1人ぼつねんと暮らしております身でありますので(昼間の作動は別として)朝・晩 楽しく見せて頂くと共に在学時代をなつかしく振り返ることといたします。どうも有難うございました。今後 益々の母校ご発展をお祈りいたします。≫


上田様、高岸様 ありがとうございました。
また、ご来校頂き、沢山のお話しをお聞かせ下さい。楽しみにしております。  ・・・同窓会事務局



   
米寿を記念に母校訪問
                上田 卓二

 私たちの卒業は、上宮学園史上、ただ1回の異形の卒業として記録されていると思います。卒業式は人生の節目を示すものです。この節目を無視した卒業式のない、卒業証書もない卒業は、将来絶対にあってはならないことです。
 昭和19年に入り戦況は、悪化の一途をたどり、国民は「欲しがりません、勝つまでは」の合言葉のもと、ぎりぎりの耐乏生活に耐えました。多くの青年・壮年は兵士として戦地に送られ、国内の労働者は極度の不足をきたし、中学生(以下「旧制の中学生」をいいます)以上の男女は、学徒動員で軍事関係の工場に、文系の大学生は兵役延期がなくなり、学徒出陣となりました。
私たちは、昭和19年から枚方の陸軍砲兵工廠(現在の小松製作所)に学徒動員され、それ以降は学校に行くことなく、勿論、勉学をすることなく、昼夜1週間交代で期間砲の砲弾造りに専念させられていました。
 当時の中学校は5年制ですが、4年から旧制度の高校、大学予科、専門学校の進学試験の受験が出来ました。私達が進学試験を受験する昭和20年初頭には、更に戦局は悪化し、毎日、B29爆撃機による爆撃をうけ、日本の各地は大きな被害を受けていましたが、進学試験は行われましたが、毎夜の空襲で最悪の受験体制となりました。また5年制が急遽4年生に変更になり、私達は、4年の繰り上げ卒業となり、進学しない学生は、学生扱いで学徒動員が適用され、引き続き陸軍砲兵工廠の勤務が続きました。
 3月に入り戦況は更に悪化し、3月9日の夜半から10日の未明にかけて、東京は多数のB29爆撃機により、大量の焼夷弾が投下され、甚大な被害受けました。続いて3月19日夜半から20日にかけては、大阪市に多数のB29爆撃機が襲来し、大量の焼夷弾が投下され、大阪は廃墟と化しました。その際、印刷を終えていた私たちの卒業証書も焼失し、急遽ガリ版刷りの仮卒業証書が作成され、卒業の日に仮の卒業証書が、工場で手渡されたが、3月19日の空襲で学生の住居が焼失し、それぞれ避難先での仮住居の生活となり、工場にも行けない状態で、多くの学生は、仮の卒業証書の交付も受け取ることができなかった。そして8月15日の終戦を迎え、お互いに転宅先も知らず、顔を合わすことなく、もちろん別れの挨拶もなく別れました。卒業式はなく、卒業証書もないまま、卒業者名簿に名前を連ねることになりました。
 それだけに母校に対する愛着には、特別なものがあります。米寿を迎え、6月13日色々な思い出を持つ母校訪問となりました。当日は、校長先生、同窓会事務局長の仲谷先生、光井先生、事務の久保田氏をはじめに諸先生に大変お世話になり、近代化した母校を、勉学に励む後輩の姿を見て力強さを感じました。中学時代、戦争で勉強ができなかった私達であるが、「上宮中学は進学校である」、その誇りは今も持ち続けています。この私たちの誇りを、皆さまにより次の代へと繋いで頂きたいと思います。     終わり



      
      

post by 事務局
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